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「水郷柳川の風景」 水と人とまちの関わり

柳川はもともと海であった。

柳川を覆う地層は、数万年前に大爆発噴火した阿蘇山の火山灰土が有明海を埋め尽くしてできたものといわれている。有明海に注ぐ大小の河川と潮汐作用により、火山灰土がやがてパウダー状の微粒子となり、数千年を経て沈殿堆積し、広大な干潟を作り出してやがて陸化していった。すなわち、有明海は今のような決まった海岸線を持たず、自然の成り行きで後退し、広大な湿地帯を形成してきた。

やがて人が生活するようになると、人々は住まいと田畑の周りに堀を掘り、土地を干陸化させ、雨水を堀に蓄え、生活用水を確保するようになった。

そして、環濠は互いに水を融通するために次々とつながり、大規模化および細分化し、無数の網の目のような堀割景観が現れてくる。

まちが出現するのは戦国時代の今から五、六百年前ではなかろうか。

蒲池、立花、田中そして再び立花と戦国大名等は城郭を整備するとともに、領国経営に文字どおり治山治水の大事業に着手してきた。

柳川城の総郭(くるわ)は沖の端川と塩塚川に挟まれ、さらに南面は有明海の干拓堤防で囲われた形にできている。

その両川は、元来源流のない川で潮川と呼ばれ、日本最大の干満の差がある有明海の入り江である。日常的に干潮では潮川は干上がり、満潮では城下は水面下となる。

そこで沖の端川をこの地方の主力河川である矢部川に繋ぎ、さらに人口堀「二ツ川」を経て城下へ真水を導水するようになった。

この柳川の生命線である水源の矢部川は、全長約六十キロメートルしかなく、急峻で保水力に欠け、ひとたび大雨となると最下流の柳川はすぐに洪水となり、干天が続けば旱魃となる。

有明海は六時間毎に干満を繰り返す。城下では、満潮のときは水面下で排水ができず、大雨のときは、大小の堀割や水田に水没ぎりぎりにたっぷり水を貯め、じっと我慢をして、潮が引くと一気に排水する。旱魃では水路を橋などでV字形に絞って急峻にし、生活用水がよどんで腐らないように、酸素を取入れる工夫もされている。地域全体で水の過多、過少を融通しあう「もたせ」のシステムが機能している。

年月が経つと、海岸の地先には堤防を越すほどの干潟が堆積してくる。江戸時代は新田開発の意欲もあり、放置すれば危険となるため盛んに干拓事業が行われてきた。鱗片状の干拓堤防が景観をなしてゆく。当然のことながら水路はこの干拓地にも拡張してゆく。

昭和の高度経済成長期には、上水道の普及、水量低下、家庭排水、農薬散布などが重なり、堀割は富栄養化となり水草が異常繁茂し、汚濁し一部ではゴミ捨て場と化した。それまで生活の根幹を成していた堀割が、飲み水どころか蛍も消え、詩も消え、子供たちの遊び場としてさえも見捨てられた。

使う水も捨てる水も数百年も同じ堀割を使ってきたが、用水と排水を区別しだすと、瞬く間に堀割は荒廃していった。

しかし、柳川は再生しこの復活劇は、映画「柳川堀割物語」として有名になった。

水郷柳川とは、今も昔も水の豊かな地というより、大変苦労しながら水を確保し、大地を開いてきた人々の関わりで築いてきた、高度な水文化が今も息づいている「まち」である。

 

柳川市観光協会

顧問 立花民雄

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